小判猫さんの話

 東京・総武線両国駅西口から、まっすぐ南へ五分ほどのところに、回向院があります。明暦三年(1657年)の振袖火事の犠牲者を弔うために建てられたものですが、鼠小僧のお墓や相撲発祥の地の碑があることでも知られています。
 ここに、小判猫さんのお墓があります。小判猫さんのエピソードには、様々なバリエーションがあります。
 宮川きゅうせん舎漫筆』宮川政運みやがわまさやす著 1862年刊行)によると、
猫は時田喜三郎という人の飼い猫で、出入りの魚屋さんが魚をくれるのでなついていた。この魚屋さんが長患いで生活に困っていたとき、誰かが二両置いて行ってくれたおかげで助かった。病気が治った魚屋さんが、時田家に商売の元手を借りに行くと、いつもの猫が出て来ない。訊けば、お金をくわえて逃げるところを二度も見つけて取り返したが、その前にも二両無くなったことがあったので、この猫の仕業に違いないと殺してしまったと言う。魚屋さんは泣きながら、家に届けられた二両のことを話し、その包み紙を見せた。間違いなく時田さんの筆跡だった。それでは、魚をもらった恩返しをしようとした猫に気の毒なことをしたと、時田さんは魚屋さんに、猫が届けようとして果たせなかったお金を与え、魚屋さんは、猫の亡骸をもらい受け、「徳善畜男」と法名を付けて、三月十一日、回向院に葬った。
 ということです。
 『藤岡屋日記』(「御記録本屋」と呼ばれた藤岡屋由蔵の1804年から65年間の日記)も、ほとんど同内容ですが、魚屋さんの名前が「利兵衛」、届けられたお金は一両、こちらの場合は、魚屋さんは、時田家の猫が来たのを見て食べ物を与えており、包み紙を照合するまでもありません。こちらでは、商売の元手は最初の一両で足りており、時田さん自身が、「時田喜三郎猫の墓」として、回向院に葬っています。法名は「値善畜男」です。
 『街談文々集要』(石塚豊芥子ほうかいし編 1860年の自序あり)の中に、「文月猫名誉ふみづきねこのほまれ」と題して書かれているお話が大きく異なる点は、猫が魚屋さんの飼い猫で、「きじ」という名前があることと、既に回向院に猫の墓が建てられた後の、別の話とされている点です。
 これらは、いずれも文化十三年(1816年)の出来事として書かれていますので、もともと一つの話が、少しずつ形を変えて伝わったものと思われます。この年、この猫の報恩譚の刷り物が、町で売り歩かれたそうです。挿し絵もあり、「稀代の悪女の夫殺し」などといったセンセーショナルな事件ものもあったそうで、今で言えば『FOCUS』(休刊になってしまいましたが)みたいなものでしょう。この刷り物にいくつかのバージョンがあったのではないかと想像しています。
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