『藤岡屋日記』

○ 文化十三丙子年三月頃とかや、深川ニ時田喜三郎と申富家有之、此家ニ飼猫有之候処、近所ニ而日〃出入之肴売利兵衛と申者、是も猫好ニ而毎日参り候得ば、何なりとも少〃宛右喜三郎之猫江魚遣し候処、此利兵衛此節不快ニ而来らず、殊ニ貧窮者故朝夕にもこまり候抔近所之事故噂も有之候由、或夜右之肴屋方ニ猫参り候間、見候得ば喜三郎家之猫ニて有之候間、よく参りたりと何か有合之なまぐさもの給べさせ申候処、金子壱両くわへて人知らず置たり、利兵衛ふしぎニ存候得共、先差つかゑの事故早速用弁致し、殊之外用立申候由、時ニ喜三郎方ニ而は金壱両紛失ニて家内吟味致し、召使等も迷惑致し候処、又〃外より参り候金子拾三両包ミ有之候処、右之猫其金をくわへて欠出候とて追欠候処、包故道ニ落候故、人〃見付て、にくいやつ金子をくわへ行候ハ盗賊ニひとし、此間之壱両もこの猫のわざにこそとて、大勢ニてたゝきころし申候由、扨肴うり右之壱両ニ而元手も出来、病も段〃全快致し久〃にて商ひニ出、喜三郎江参り猫へ肴を遣スべしとて相尋候へば、猫めハ金を盗候故打殺し候と申故、最初より壱両紛失之訳噺し候へバ、肴屋も心付、さては右之壱両ハねこくわへ来、又〃跡金くわへて参と致し、被殺候事と不便至極ニ存、是より自分始末をも咄し、いづれも右之壱両ハ其猫くわへ来りしニ相違なしと申ニ付、喜三郎も感心致し、回向院水子墓の脇ニ小キ猫の墓を立けり。
 値善畜男と彫付有之、脇に時田喜三郎猫の墓と有之。

  『近世庶民生活資料 藤岡屋日記 第一巻 文化元年−天保七年』(三一書房)より
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