創作メルヘン 「ほつれ」
ジャケットの、肩のほつれが気になっていた。何となく気に入っていて、もう長いこと、こればかり着ているのだから無理もない。
鏡に映すと、右の袖山から、糸が二本飛び出ている。妙に目立つので切ってしまおうと思った。が、左手に持った鋏は、不器用に糸を挟むばかりだ。もう、出かけなくちゃ。帰ってきたら、今日こそ忘れずに切っておこう。毎日そう思いながら、もうかれこれ二週間になる。我ながら自分の性格にうんざりする。
それにしても、このジャケットとの付き合いは長い。いったい、いつからだったろうかと、ふと考えてみると、意外に思い出せない。勤めだしてから買ったようにも思うが、学生時代から持っていたような気もする。いや、それどころか、実家にいた頃からあったかもしれない。駅への道々、あれこれ思いをめぐらせながら歩いたが、なかなか記憶のしっぽを捕まえることができない。
思い出せないとなると、気になるもので、電車の中でも、会社に着いてからも、そのことが頭を離れない。
次第に苛立ってきた。わかったところで、どうでもいいことだ。思い出そうとするのをやめさえすれば、それで済むのだ。そう思おうとしても、どうしても意識がそこへ向かってしまう。思い出せないということ自体が、歯がゆくて我慢ならない。
かろうじて席に座ってはいるものの、仕事どころではない。いくら考えても、何の糸口もつかめない。そんな自分自身に腹立たしさがつのる。イライラが高じて、思わず机を叩いて立ち上がってしまった。
同僚たちが唖然としているなか、そのまま、足早にトイレへ逃げ込んだ。
洗面台の鏡に映ったジャケットの肩の上で、あざ笑うかのように、糸が二本、Vサインを送っている。このやろう、馬鹿にしやがって。左の掌に力を込めると、二本のほつれ糸を握りしめて、思い切り引っ張った。
プツン。切れると思った。だが、その糸は何の抵抗も見せずに、するするすると伸びてきた。
この手応えの無さに覚えがあった。際限なく続いてしまうことへの不安。奈落への予感。それにもかかわらず、引っ張る手を止められない。抗えない魔の力。
これは・・・。確かに子供の頃、こうして糸を引っ張り続けていた日があった。あれは何の糸?茶色い、そう、茶色いぬいぐるみの、くまの肩から出ていた糸だった。
思い出した。その糸は、何日も前から、そうしてほつれていた。とても気に入っていたぬいぐるみだったので、直して欲しくて、母に何度も頼んだのに、何故だかそのまま放って置かれた。 あれは、「着物のおばちゃん」にもらったものだった。「着物のおばちゃん」。いったい誰だったのだろう。
その日、ぬいぐるみの肩のほころび目が、堪らなく目障りに思えて、力まかせに引っ張ったのだった。
プツン。切れるかと思ったのに、その糸は、するするするすると、どこまでも伸びてきた。はじめのうちは面白くて、ずんずん引っ張っていたのだが、そのうちふと不安になった。得体の知れない恐怖が走った。止めようと思った。けれど、催眠術にでもかかったように、どうしても止めることができなかった。ちょうど今みたいに。
引っ張って引っ張って、と、突然、ぬいぐるみは消えてしまった。足元に、茶色い糸くずの山ができていた。
はっとして、鏡の中を見た。私が消えようとしていた。洗面所の白いタイル一面に、茶色の糸が降り積もっていた。
(「詩とメルヘン」98年4月号に掲載していただいた作品を少し手直ししました。)